98歳のウクライナ人の祖母は、ホロドモール、第二次世界大戦、ソ連時代のウクライナを生き抜きました。

ヨーロッパ

私の祖母は98歳です。想像を絶するほど過酷な時代にウクライナで育ちました。ホロドモール、第二次世界大戦、ソ連時代の生活、飢饉、恐怖、そして激動の時代を生き抜いてきたのです。

祖母は現在、怪我で寝たきりの状態です。年齢的に余命も分からないため、あの時代の話を聞くことができる残り少ない貴重な機会だと感じています。何でも質問してください。

祖母の祖父母は裕福で多くの家を所有していましたが、ソ連の「富農撲滅運動」によって、所有物はすべて奪われました。この運動では、「富農」または「クラーク」とレッテルを貼られた農民から土地、家畜、財産が没収され、多くの人が国外追放、投獄、迫害されました。こうしてウクライナの文化を滅ぼそうとしたのです。

※ホロドモール:1932~1933年に起こった人為的な大飢饉。スターリン政権による農民への強制徴収、強制移住が原因。死者は330万人に及んだ。

曾祖母はコルゴスピ(ソ連の集団農場で、私有地ではなく共有地)で働いていました。彼女は望まない男との結婚を強いられ、拒否したために殴られました。それでも意志を貫き別の男と結婚したのです。

祖母は小学校の教師として働き、生徒たちに初めてカメラやテレビを見せた人物でした。

祖母の兄は戦争で負傷し、家族の姿を見た後、出血多量で亡くなりました。

祖母の夫はソ連の医師たちによって殺されました。病院で強制的に脊髄を採取され、別の患者に移植されたのです。

数々の苦難にもかかわらず、祖母はこれまで出会った中で最も明るく、人生を愛する人でした。その気持ちが、活動的な生き方、ひいては長寿にも繋がったのだと思います。

2026年5月下旬投稿

彼女が飢饉から学んだ料理はありますか?

第二次世界大戦の最後の年に、私の国では冬の飢饉が発生し、人々は狩猟をしたり、花の球根を食べたりして飢えをしのぎました。

料理というより、木の皮、腐ったジャガイモ、ネズミの巣穴から取った穀物で作ったスープ、芽など、祖母はあらゆるものを食べていました。

私は幼い頃から「食べ物は決して捨ててはいけない。ホロドモールの時代にはこんな食べ物は夢だった。」と教えられてきました。

正気を失った家族内では、人肉食が行われたという話も聞きました。

彼女はソ連についてどう思っているのでしょうか?

崇拝するウクライナ人もいれば、憎悪するウクライナ人もいますよね。

祖母は「ウクライナは独立して良くなった」と言いました。独立前は、人々が一生懸命働いて得たものは全てソ連政府に奪われ、ウクライナ人の生活は少しも良くならなかったからです。

彼女の答えは簡潔なので、私が少し付け加えます。

ソ連政府は富農撲滅の際にすべての財産を奪い、親ウクライナ派の人々を殺害し、シベリアに送るなどしました。ソ連は1720年にウクライナ語禁止の最初の法律を制定し、ウクライナ文化を否定しようとしてきましたが、今まで生き残ったのは信じられないことです。

ソ連を懐かしむ人々は、人々がもっと団結していた時代を懐かしんでいるのだと思います。私のもう一人の祖母がかつて言ったように、畑仕事から帰るときには人々は一緒に歌うことがありましたが、今はありません。

※1720年、ロシア皇帝ピョートル1世は、ウクライナ語で書かれた新書の出版を禁止し、古書をロシア語に書き換えるよう勅令を出した。

ホロドモールのような時代に、どうやって正気を保ち、生き延びることができたのでしょうか?

彼女は、母親が裁縫ができたおかげで家族が生き延びられたと言いました。穀物や牛乳、その他家族が飢えないようにするためのちょっとした食べ物と引き換えに、裁縫をしました。

大変だったようです。

祖母は7人兄弟の長女で、兄がいましたが戦争で17歳で亡くなりました。祖母の母親は合計14人の子供を産みましたが、最初の7人は早産(14〜16歳ぐらい)のために亡くなりました。

祖母の人生は映画のようで、決して楽なものではありませんでした。

私の大叔父はハンガリーの共産主義政権によって「富農」の烙印を押され連行されました。真夜中に連行されたと聞いています。

彼女は今のロシアについて、ウクライナとの戦争についてはどう考えていますか?

祖母はロシアについて悪い印象を持っており、「ウクライナは誰にも侵略したことがないのに、ロシアは私たちに平和に暮らさせてくれたことがない。ソ連は政府に反対する発言を許さなかったが、今もそれは同じだ」と言っています。

戦争はプーチンと支持者のせいだと考えています。

私の母はかつて「ロシア人はウクライナの発展がはるかに進んでいることに嫉妬していた」と私に話しました。私も「戦争はいずれ起こるだろうね」と答えました。

彼らは1720年に私たちの言語と文化を禁止する最初の法律を制定しました。ロシア人は帝国主義者です。土地を奪い、自分たちの言語を押し付け、奪った土地の人々の文化は自分たちのものだったと言います。

以上が私たちの家族の見解です。

彼女の夫が強制的に受けた脊髄移植手術について、もっと詳しく教えていただけますか?

祖母の夫はバイクから落ちましたが、特にひどい状態ではありませんでした。事故後に彼女が訪ねたときは、骨折も無く、見た目も元気そうで、擦り傷があるだけでした。

次に彼女が訪ねたとき、彼はひどく衰弱していて「4人の医者が無理やり押さえつけて脊髄を引っ張っている。いくらやめてくれと懇願してもやめてくれない。もう一度同じことをされたら生きられない。」と言いました。翌日彼女が訪ねると、彼は亡くなっていました。

祖母は人生を愛するとても明るい人でしたが、この話をするたびに泣いていました。認知症になり始めたとき、私に会うたびにこの話をするようになり、彼と結婚していた10年間がこれまでで一番幸せだったと言っていました。

「子供たちを養わなければならなかったし、自分の気持ちは考えなかった。」という夫の死から10年後、祖母は私の継祖父と一緒になりました。「彼はいい人で、3人の娘を持つ一人親だったから…私は彼らをかわいそうに思って受け入れたの」。彼の母親が彼女に会い、「彼を受け入れてください。良い働き者で、あなたの手伝いをしてくれるでしょう。どうか彼を受け入れてください」と頼んだそうです。

彼女は何を教えていたのですか?

祖母は小学校の教師で、読み書きを教え、放課後には授業も行い、子供たちにかぎ針編みなどを教えていました。

チェルノブイリ原発事故の影響はありましたか?

祖母はチェルノブイリの影響を受けませんでした。被害を受けたのは主にその周辺地域でしたから。

ある時、祖母がバスの中で会った乗客は「チェルノブイリの事故後、家族で自家栽培の野菜を食べていたところ、病気になった」と言っていました。どういうわけか、放射性物質が遠くまで飛散し、庭にまで達したのでしょう。祖母はチェルノブイリから遠く離れた場所(別の地域)に住んでいると言っていたのを覚えています。

彼女にとって人生で最も幸せだった瞬間は何ですか?彼女とご家族の健康と安全を心からお祈りしています。

初めての結婚生活の10年間が一番幸せだったそうです。当時、相手の男性は祖母をデートに誘いたかったのですが、彼女は父親から勉強するように言われていて「デートは禁止」だと言って断りました。すると彼は「デート禁止?じゃあデートはしないよ。結婚してくれ!」と言ったのです。そして、出会ってすぐ結婚しました。信じられません。

二人の間には子供が二人いて、祖母は学校の先生として働き、夫は警察官でした。彼が病院で亡くなるまで祖母は、一緒にいること、家族を持つこと、彼が本当に彼女を愛していて、何でも手伝ってくれたことが一番幸せだったと言いました。

数年前にホロドモールに関する本を何冊か読んだのですが、学校で習っていないことに衝撃を受けました。私もヨーロッパに住んでいるので、これは議論すべきテーマだと思います。そこで、あなたに質問なのですが、ウクライナでは現在、学校でホロドモールについてどの程度教えられているのでしょうか?

私たちはホロドモールについて学校で学びましたが、どれくらい正確なのか分かりません。その時は、多くの生徒が家族から聞いた話、祖父母が体験した話、飢饉で路上で亡くなった人々の悲痛な話などをしてくれたのを覚えています。

飢饉のような経験は、食に対する考え方を大きく変えるものだと思います。彼女にはどのような影響があったのでしょうか?彼女は生涯、そして今もなお、食べるものが足りなくなるのではないかと不安に思っていたのでしょうか?

祖母が食べ物を捨てるのを見たことはめったにありません。そうした習慣は今も残っていて、私もその影響を受けています。私が食べ物を捨てようとすると両親は悲しむでしょう。

常に地下室をいっぱいにするために、たくさんの野菜を植え、保存食を作りました。パンを捨てることは固く禁じられ、残れば乾燥させて後で食べます。祖母はいつも、食べ物が足りなくなるのではないかと心配しています。育ちの影響なのか、それとも両親が仕事に行っている間に何度か食べ物がなかったことが原因なのかは分かりません。おそらく両方でしょう、

彼女が人生において最も大切にしているアドバイスは何でしょうか?

祖母は以前、落ち込んだ時は何かで忙しくするようにと言っていたのを覚えています。そして、それをやり終えると、達成感で気分が良くなるとも言っていました。

彼女は共産主義についてどう考えているのでしょうか?

祖母は「ソ連時代には共産主義は実現しなかった。理論上は悪くないように聞こえるかもしれないが、それは嘘で、政府は国民からあらゆるものを奪い、当時の生活は本当に苦しかった。物を手に入れるのも大変だった。」と言っていました。

彼女の家族は9人家族で、靴はたった1足しか持っていなかったそうです。信じられません。

他には、家族全員でたった一切れのパンを食べていたこと、ホロドモールの間、母親が人々のために服を縫って食料をもらっていたおかげで生き延びたことなど…。本当に大変な話ばかりです。

ウクライナ人は人種差別的ですか?

韓国人や中国人は、インド人やアフリカ人に対して人種差別的です。

私の感覚では、ウクライナ人のほとんどは人種差別主義者ではありませんが、もし他国の人々がここに来て混乱を引き起こした場合、人々は変えるべきことを声に出して訴えるでしょう。私たちは非常に自由な国民です。

あれだけの辛い経験を乗り越えて、どうやってそんなに強くいられたのですか?幸せでいられる秘訣は何ですか?

私が祖母に尋ねると、「どうやって?本当に大変な時代だったの。私は未亡人で、子供たちのために生き続け、その中で幸せを見つけなければならなかったの…」と切り出し、最初の夫についても、いつも泣きながら話し続けました。

彼女は庭仕事が好きで、裁縫も好きでした。小学校の教師として33年間働きました。彼女は子供を愛し、子供たちのために生きなければならなかったと何度か繰り返しました。

彼女は人生で大きなトラウマを負ったと言えるでしょう。しかし、家族に愛され、教師として評価され、裁縫の仕事は生涯を通じて必要とされ、人助けをすることで感謝されていました。裁縫は95歳までしていました。彼女は自己肯定感が高いと思います。

誰かに不快なことを言われても、すぐにそれを忘れていました。その点、彼女は正しいと思います😁

一方、私の意見では、かなりの自己中心的なところがありました。 祖母は親切だけど、例えば、義理の娘や近所の人を批判することもありました。

※元の投稿https://www.reddit.com/r/AMA/comments/1tq1ufr/my_98yearold_ukrainian_grandma_lived_through_the/

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